寛保2年(1742年)の旧暦の7月末から8月初旬にかけて、近畿地方から関東地方にかけて発生した災害である。この災害では、台風が前線を刺激したことで発生したものと考えられてきた。例えば、信濃毎日新聞社出版局 (2002)の「戌の満水」を歩く:寛保2年の千曲川大洪水 では、台風の進路がいくつか検討されてきた、町田(2014)によって、天候資料を基にはじめて復元された。全国の資料を照らし合わせると、台風は近畿地方の南岸を関東地方方面に進み、関東地方の南岸で進路を変えたことになる。また、岐阜などの災害履歴の無さから、京都や奈良また、紀伊山地の一部の災害記録から有力な進路である。

この台風により、「戌の満水(長野県)」や「寛保二年江戸洪水(東京都)」、「寛保洪水(埼玉県)」と呼ばれるように、「洪水」に注目されてきたが、町田(2011)などによって土砂災害が数多く発生したことが指摘され、土砂災害が注目すべき災害であることが明かになり始めた。また、長瀞町での水位について検討し、河道閉塞の可能性を指摘し、複合災害の可能性まで導き出されつつある。
単に災害記録の公表というのは数多くあり、市町村誌にある災害史や災害にまとめられていることが多い。